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園長つうしん(令和3年6月号)
例年より2週間ほど早い梅雨入りで、いよいよ日本らしい湿気の多い季節となって
きましたが、子どもたちは4月からくらべると随分安定した姿で遊んでいます。
新規感染者は減少傾向ですが、緊急事態宣言が延長されまだまだ予断を許しません。
このコロナ禍の国会では、一つの閣僚の言葉に対して「正しい・間違っている」の
論争が繰り広げられています。
同じ言葉でも、(あえて?)違う意味に捉えられることが原因なんですが。
この言葉の取違いは、国会の縁遠い場所だけでなく私たちの身近にもあり、例えば
「ほっといて」は、関西は「捨てる」で、関東では「そのままにする」です。
このように、家庭や園でもよく使う「子どもを見ておく」も、違う意味があります。
家庭で「子どもを見ておく」と言われると、その子が安全・安心しているように確
認する、ということが通例です。
(家族に「見ておいて」と言ったら本当に見てただけーで、部屋はえらいこっちゃ、
という場合もありますが)
幼稚園の先生の「子どもを見ておく」も、もちろん家庭のような安全・安心を見る
意味としても使う場合もあります。
ただ保育参加に入られた保護者が、「私、全員見れなかった。押し寄せるようで大
変だった」と仰るように、いくら慣れている職員でも子ども集団を動かしながら全
員と一人一人と肌身離さず関わることは、ちょっと難しいのが現状です。
では家庭とは違う幼稚園で、どう「子どもを見ておく」のかといいますと、「集団
の中で、どれだけ自分の様々な力を発揮しているか」を確認しています。
・自主的に自分の身の回りのことをしているか(意欲)
・他児と関わっているか(人間関係)
・自分なりの発想を持ちながら活動しているか(クリエイティブ)
・様々な言葉で対話しあっているか(コミュニケーション)
・自分なりの感じ方を出しているか(自己表現)
こんな部分を意識して、保育的の専門的視点として「子どもを見ておく」のです。
目に見える外見的な部分ではなく、目に見えないココロの部分。
目に見える結果の部分ではなく、目に見えない過程の部分。
どちらの意味が正しいか・優れているのか、と言いたい訳ではありません。
家庭の「子どもを見ておく」と、幼稚園の「子どもを見ておく」、どちらの意味も
理解しながら双方が大切にされたら、さぞかし子どもは幸せだろうと思っています。
2021年6月7日